湯気
湯気にあてられて、ふらふらとドアから外に彷徨う。
夜空は分厚い雲に覆われ、月はいくばくも地上を照らしてはいない。
遠くから太鼓の音が聴こえ、私は火照った体のまま音のする方向に歩いて行く。
山肌に沿って暗闇の中にぽつぽつと明かりが見え、そこには25メートルプールのような広々とした天然の温泉がそこかしこに沸き、人を誘う。
私は山際のいちょうが雨のように注いでいる温泉に目をつける。
浴衣を脱ぎ、持っていたユーカリを取り出し、決められた儀式を丁寧に執り行う。
それから脱衣所につけられた洗面器付きのインスタントお祈りセットを購入し、遠浅の海岸のような浅い湯に私はしずしずと入って行く。
湯気が立ち上っている湯面は、ほんの数センチ先ですら朧げだ。
私は肩まで湯に浸かり、目を閉じて、それから目を開ける。ここではどっちでも視界が同じらしい。
じきに私は本能に身を任せ、起きているか寝ているのかどうか区別かつかなくなる。
なるほど、宿でもらった観光案内にあったとおりだと私は思う。
しばらくすると人の気配を感じる。
ここでは、真剣に希望すれば望んでいる人物に会うことが出来るという言い伝えがある。
波ひとつ立てず、その気配は私の方に近づいてくる。
私は軽い気持ちで奇跡を期待する。
気配は私のすぐ側まで近づく、湯気にまじって煙が立ち上っているのが感じられる。そこだけ妙に煙の密度が濃い。
顔を向けるとハイライトの強烈な匂いがして、そこから気配は10年前に死んだ私の祖父だと分かる。
「あれ、なんだお前か、元気にしてるか」と祖父は言う。
元気ってなんだよ、ここで何をしてるんだ。と私は言う。
んーおまえの若い頃のおばあちゃんに会いたくてな、だがどうも集中できなかったらしいな。
と残念そうに、どうも少しズレてお前が出てきたみたいだ。と祖父は言う。
出てきたんじゃないよ旅行中なんだよと私は伝える。
なるほど、納得ついでに、祖父はゴホゴホとむせる。お前まだ生きてんだ。
ここのいい所はな、会いたい人と裸で会えることだ。と祖父は言う。
あの世とこの世をつなぐ場所というのはいくつもあるが、オープンに混浴なのは日本でここだけだ。
お前のおばあちゃんは抜群のプロポーションをしていたからな。
とスパスパと煙の隙間から祖父は目を細めて話す。
祖父に会えて嬉しい気持ちが若干萎える。それから、祖父はあくびをする。
どれ、せっかく会えたんだからコツを教えてやる。お前も試してみればいいと集中の手ほどき祖父は教えてくれる。
温度とタイミングが肝心だと祖父は私に伝える。
旅行を終え、私は家に帰る。
日常に戻り、さびしい日々がまた始まる。
夜、疲れた体にむち打って家の小さなユニットバスに湯をはる。
それから肩まで湯船につかり、私は祖父に教わったとおりの手ほどきを試みようとする。
湯気が龍の形に立ち上り始める。ここまでは問題ない。
強い気持ちで、亡くした妻の姿を想像するが、僅かにハイライトの匂いがする。
再び祖父が出てきてこの狭いバスタブ2人きりになることを怖れて、私は少しの間だけ躊躇する。