電球

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ここ1ヶ月で家の中の電球が立て続けに切れた。
一つ目はリビングのテーブルに上につけていたメインでつけている明かり、エジソン電球復刻版というわりとお洒落な電球で気に入っていたものだった。さらに暗いのでキッチンの上についていた電球を移動させようとしてその電球を素手で割った。

間接照明の電灯も一つ切れて一つ割れていた。これで生き残った電気はたったの2つ。そのままにしてエコという名の元にやせ我慢するのも限界があるので、電球を買いに行った。

売り場にいくと大きく看板がたっている。どうも白熱電灯ってのは2012年末には廃止の方向になったらしく、電球型蛍光灯なるものが売り出されている。値段は900円ぐらいと少々高いけれど、消費電力で4倍近くや寿命で6倍にもなるらしいので
かなりエコだ。ほのかな人間味のある白熱灯に比べてロマンがないことを我慢すればいい事ずくめだが。何故かならんでいる電球型蛍光灯に違和感がある。

しばらく眺めて気付いたのだが、それは彼らがスケルトンな事にあった。

電球型蛍光灯って蛍光灯を電球内でぐるぐるとまかれている。
その趣はあの病院で医師がレントゲンで患者に病状を説明している、あの状態に似ている気がする。
しかも、その蛍光灯が人間の内臓(大腸とか)そっくりに思えてくる。この感じは、病院嫌いの僕を十分に弱気にさせるに足る。

このまま進むと13年以降は日本の全ご家庭では、この大腸電球がぶら下がっている事になっているわけで、そう思うとちょっと怖い。
だから、もう少し東芝とかパナソニックには頑張ってもらって、電灯の形を買えてもらいたい。☆型とか△とか。なんなら文字型として蛍光灯で「パルック」と表現してもらってもいい。実際のあかるさと文字による気分的な明るさも兼ね備えているのだ。きっとブランディングにもなるだろう。

それはさておき別の話がある。
小学校の時の電球の話だ。

1985年頃、通っていた小学校のクラスメイトに奥寺くんという男の子がいた。
奥寺くんは、絵が多少うまいことを除けば、特に目立つ所のない子だった。
クラスの中でグループに所属しているわけでもなく、さりとて一人で遊んでいるだけの内気な感じでもなかったが、どことなくマイペースな雰囲気があり、ドッチボールが行なわれれば必ず誘われるし、遠足でもちゃんとペアの組める程度の相手はいた。

ある日、何の実験だったのか記憶にはないけれど、理科の時間に実験することになった。その準備として各自で電球を用意することになった。
電球といっても小さな豆電球で、だいたい1個50円程度のものだ。僕も母親に頼んで豆電球を買ってきてもらっていた。

当日、理科室の日差しを遮るための黒いカーテンをしめて僕らは思い思いに乾電池を使って電球を光らせていた。その内、みんな飽きてきて、壁に手で犬・ハトをかカニとか影遊びみたいな事をやり始めた。

その影の上に、奥寺くんは突如として、手で赤いウサギを作り出した。
しかも今まで僕らがみたことがない緑や青や赤に光る色の着いた電球を利用していた。
やがてクラスメイトの全員が奥寺くんの作り出す次元が違う特別な技に目がいくことになった。色の豆電球だけではない、奥寺くんは影遊びの天才だった。
ウサギやカラスなど、さらには色とりどりの干支を即興で演じきった奥寺くんは喝采を受けていた。

翌日、校区内にある駄菓子屋の店頭に一斉に色付き電球が並んだ。
学校のブームというものは近所の駄菓子屋の在庫を売り上げを左右する。
僕らはそのカラーの電球を買い求め、奥寺くんの技を盗もうとした。

しかし、子供というのは例によって飽きっぽいところがある。
その後に続いた空前の阪神タイガースブームの前に、地味目な影絵ブームは急速に失速していった。ブームを引き起こした奥村くんでさえ、特に気にする事なく、阪神数え歌を歌っていた。

しかし、奥寺くんはそんな事では怯む人ではなかった。

そして年末のプレゼント交換の日が訪れた、クラス全員で椅子を出して円を描いて座り、番号の紙を持つビートルズのオブラディオブラダがとまった時点で持っている番号が貰えるプレゼントだ。僕が引いた番号のものは小さなカンカンのお菓子入れだった。

フタを開けて中身を見るとそこにあったものに僕は衝撃を覚えた。
紙粘土で作られた手型だった。それから横に電池と豆電球が置かれていた。
手型のリアルさに一瞬、子供ながらに気持ちが萎えた。だから外に出さなかった。
奥寺くんのいる方向を見ると、奥寺くんは輪ゴムをかけて遊べる紙のピストルを振り回していた。

僕はそこで披露するべきだったのかもしれないが、紙粘土というものは、衝撃にそれ程つよくないのだ。ランドセルに入れっぱなしで、指がボロボロに外れてしまっていた。あわてて修復したものの、電球で照らしたその形はいったい何を表しているかさっぱり分からないものだった。そもそもこれは電球で照らすものだったのかさえ分からないほどに台無しになっていた。

もともと奥寺くんとはそんなに仲良くなかったから、僕はその後、彼とは一言も話さないまま、その学期がおわった段階で彼は関東に転校していった。

奥寺くんがどんな形を完成させていたのか今でも気になったままだ。

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