自動販売機
今からだいたい15年ぐらい前の事になるけれど、世界の見方を変えてくれたとある自動販売機があった。
その自動販売機は僕が通っていた大学の体育館の横にコーナーとして数台並べて置かれていたうちの一台だ。
メロンファンタ&コーラという誰も希望していないのに2種類の味を混ぜる事が可能な紙コップタイプのものや、DYDOとかサントリーなどのメーカーもの、それに加えて学校の生協が運営していそうな紙バック牛乳も買える販売機なんかがあった。
その販売機は消費税のせいで缶ジュースが110円になった段階でも、しぶとくワンコイン(100円)で買える状態を死守していた。学生が集まる部室からも近いこともあって、僕も含めた学生達はよくそこを有り難く利用していた。きっと今もしているだろう。
ある夜、僕は付き合いたての女の子と夜の散歩に出かけていた。大学のすぐ近くにあった僕の下宿からふもとの駅まで歩いていってまた戻ってくるというような無目的な散歩だった。季節は冬に入って間も無い頃で、本格的な寒さは訪れていなかった。寒さはまだ山の向こうの雲がたなびいている様子で、こちらに向かってくるのが僅かに感じられる程度だった。
学校は高台にあったので、帰りは駅からずっと坂を上ってくる必要があった。
少し寒くなってきたとはいえ、汗をかくぐらいの距離と勾配がある。だから学校のその自動販売機にたどり着いた地点で、2人とも喉が渇いていた。夜の人気のないその自動販売機は、暗い海に立つ灯台のように光り輝いていた。
でも、二人とも財布を持ってきていなかった。
本当はもっと早く帰るつもりだったから、持ってこなかった。コートを探ると右側のポケットから100円玉が1枚出てきた。でも、それだと一人分しか買う事が出来ない。
当時、僕は慢性的な貧乏でかつ浪費家だった。逆説的だけど不必要なものを買う事で貧乏なことに耐えていた。流行っているからという理由でCDを買い、読むか分からない難しい内容のハードカバーの本を買った。そしていつも何かに苛立っていた。その日も散歩中にどうでも良い事で言い合いになって、自己嫌悪に陥っていた。こんなんで、彼女とうまくやっていけるかどうか全然確信が持てなかった。
だから、その時は本当に後悔した。そんな不必要なものを買うぐらいだったら、今ここに2人分のコーヒーを買うお金が欲しかった。たった100円の事だったけど、そのお金をもっていない事が心から辛く思えた。
「よくお釣りの所に小銭が残っている事があるんだよね。」と僕は言った。
自動販売機に近寄りながら、自動販売機の釣り銭の出てくる窓に手を入れてみた。
それはもちろん軽口として口に出しただけで、あるとは思っていなかった。
1本なら買えるわけだから、それでいいと思っていた。コーヒーを1本買って、二人で半分づつ飲んで、落ち着いたらちゃんとこれからの話をしようと思っていた。二人の仲がもうダメならダメで仕方がない。
でも、そうはならなかった。伸ばした手の先に固く丸い物がふれた。
僕はそれをさっとつかんだ。
そして、手のひらにのせて自動販売機の明かりの中にそっとかざしてみた。
それは紛れもなくシルバーの100円玉だった。その時どうしても欲しかった100円玉だった。
驚いて声がでなくなっている僕に気付いて、彼女が心配そうに声をかけた。
振り返って僕はもう一度手を開いてその100円を彼女に見せた。
「ラッキーだね」と彼女はいった。
自動販売機の光に照らされて、2枚の100円玉は紛れもなく光っていた。
どんな事であれ、僕は自分がラッキーだと思った事は一度もない、この世界は得られるものであれ、失ったものであれ、それはあくまで原因と結果の世界だと思っている。しかしそうでない時もある。
出会いなんて偶然にすぎないかもしれないけれど、物分かりの悪い僕に、誰かがそのシルバーのコインをつかって分からせてくれたように感じた。
根拠なんて100円玉で十分だ。
何か問題が起こって、手詰まりで出口がないように感じる時でも、僕はいつも思っている「あの時、あそこに100円玉があった」だから今度も大丈夫なんだろうと。